みんな違ってみんないい。
子どもの成長は長い目でみたいな。
☆画像は息子・小学3年生の時の自由研究☆
コロナ自粛期間、休校の影響で、小学生の学力が低下すると心配して、いま詰め込みカリキュラムにしている小学校が多いと聞くのですが…。
息子が小学生の頃、学力テストも体力テストも、食べ物の好き嫌いも、まるっきり心配しなかった私からしたら…。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」と言いたいけど…。
一概にそんなことも言えないし…なんとなくモヤモヤしてます。
私が息子の教育に関して気にしていたのは、「挨拶ができるか」と「言葉づかい」「所作」を柱とした命に対する礼説…。←これは家庭の領域。
それから、情緒教育をとびっきり大切にしていて、とくに、絵本や物語をたくさん読んで聞かせてあげることが、幼児にはもっとも大切な心の栄養と思っていました。
ファンタジーを思い描く能力と、言葉の豊富さが人生を豊かにする。と今でも私は信じています。
それから、「手先が器用であること」「何かを作りだすことを苦にしないでできること」も大切だと思っていました。
「礼節が備わり、想像力があり、手先が器用なら、それで充分この子は楽しく生きていける」
と思っていたのです。
逆に、学校の授業で使う教科書やドリル、配られてくるプリントを見て、
「なんて画一的で無味乾燥としてるんだろう」
と思い、
「これじゃあ、やりたくないよね〜」
とさえ思っていたほど。でもでも、
「義務教育で学校に行かせていただけるというのはすごいことだし、ありがたいことだし、制度にも、先生方にも感謝の気持ちは忘れないように」
とも思っていました。
事実、幼稚園から高校まで公立に通い、良い先生に恵まれていて感謝しかありません。
学校に行くメリットは、とくに小学生低学年のうちは、学力向上より、師弟関係や友人関係を築くことの方が重要だと…。私は考えているのですが、そうだとしたら、一日の長い時間を創造性のないように感じる教科書やドリルを使って勉強するということが、無為に感じられてしまうし…という矛盾も持っていました。
でも、社会で生きていくということは折り合いをつける、ということだとも思っていたので、特殊な教育を受けさせるより、普通の公立校で育ってほしいという思いもあったわけです。
でも…一斉教育には馴染まない子どもはいるわけで…
小学一年生の冬休み…書写の宿題で教科書の書き初めの文言が、
「お正月です。みんなでおめでとうと言いました」
というようなものだったのですが、
「今年はおじいちゃんが死んで誰もおめでとうって言わないのに、こんな文章書けないよ」
と息子が言うので、誠に最もだと思い、
「そうだね、書かないでいいよ」
と告げました。
子どもが自分の気持ちを曲げずに貫くということをサポートするのが親の役割というか…。そんな風に気づかせてくれるエピソードでした。
でも、保護者会や公開授業で学校に行くたびに、息子の作文だけが、廊下に貼りだされていないのを見るたび、
「どんなこと書いているのかな?」
と少し期待していた私はちょっぴりがっかりもしたのだけど、
「なんで書かなかったの?」
と聞くと、
「みんなと同じことを書かされるのがつまらない」
というので、
「そうだよな〜」
と納得してしまう私…。
そんなわけで、息子はよほど気が乗らないとドリルや宿題はやらないに徹していたわけですが、長期休暇の際には、私が目標のスケジュールを作り、新学期には全部ちゃんと提出できるように仕向けたから、やればできる。わけでして、なぜ私がそうしていたかは、始業式の前の日に徹夜させたくなかったから…。なんです。
しかし、果たして、徹夜してまでやるかどうかは、うちの息子に限っては疑問です😅
この4月、少々、授業が遅れたからってあせる必要もないし、天から降ってきた時間ぐらいに考えていた私は(将来の経済的な不安はありましたが)、幾分、世間とはズレているかもしれないけど…。
小さいお子さんたちの成長は、長い目でゆっくり見守っていきたいなあ、と常々、思っています。
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